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Minna Beach水納ビーチとは

Location of Minna Island水納島の場所

沖縄本島北部の本部半島沖に浮かぶ水納島!

そこは、沖縄の自然が残ったリゾートアイランド

飛行機の窓越しに見えた周囲をサンゴ礁に囲まれた小さな島。沖縄へ来たのだという実感が沸いてきた。

そして、「この島へ行きたい!」そう思ったに違いないはず。

本島から高速船で、15分。周囲4キロの小さな島。
そこにはエメラルドグリーンの透き通る海と、美しい砂浜が広がる格別の世界。

訪れる人々に爽快感と安らぎをきっと与えてくれるはず。

アクセス方法

Highlights of Minna Island水納島の見所

手付かずの自然が残っている水納島には、
ビーチレジャーの他にもダイビングスポットや
ゆったりのんびり歩ける場所があります。

お食事

やっぱりビーチで食べるバーベキューは最高!その他にも生ビール、カキ氷、軽食などを販売しているパーラーをご紹介します。

遊び

水納島のコバルトブルーの海で、マリンスーツを楽しもう!バナナボート、グラスボートなどみんなで楽しめるメニューが盛りだくさん。

Famous father名物おやじ

屋冨祖 良盛

水納ビーチを運営して30年以上!
みんなが知ってる水納島のおじさん!

水納島で、お客様を対応して、35年!

お客さんとのコミュニケーションを大事にして、
最高の思い出を作っていただけるよう、
しっかりとサービスを行ってきました!

唯一、水納島の人がやっている会社として、
より良いサービスを提供していきます!

Famous father水納島の歴史・産業

位置と自然


水納島は本部町の中心、渡久地から南西の海上約8kmに浮かぶ周囲約4.6km 面積0.54㎡の小島で、北緯26度39分、東経127度49分に位置している。

○馬蹄形をしたサンゴ礁の島

水納島は大部分が砂に覆われ、周囲は防潮・防砂・防風林として植えられたアダンや木麻黄が密生して、濃い緑につつまれている。
隆起サンゴ礁からなるこの島は、「琉球弧の中にあって形成プロセスまで残すサンゴ礁として、とくに注目できる島である。」と言われている。
島の大半は5mほどの平坦な海岸段丘であり、北側の高まりは地震などで隆起してできたと考えられている砂丘が広がっている。
夏季の5月~10月頃にかけては気温が高く、猛暑が続くが、冬は北東側が高いため北東の季節風を防ぎ、島内は割りと暖かく、寒さを感じさせない。

水納島の産業


農業主体でしたが、昭和50年代頃から観光産業へ移っていきました。 当初は島民が経営する3~4のレジャー業社がありましたが、 一つにまとまり(有)水納ビーチを設立し、現在に至ります。

【産業の移り変わり】

島の産業は農業が主体でほとんどの家庭が農業をしていました。 代表的な作物としては、西瓜、大根、人参等がある。
島を取り囲む約6kmの広大なサンゴ礁とイノー(礁湖)は魚や蛸、貝類などの豊かな海産資源に恵まれているが、漁業を専業とする者はなく、農業のかたわら必要に応じて自給自足の漁業をする程度である。 また近年は観光産業がおこり、島の人たちがそれに従事するようになった。
昭和50年代中ごろから、レジャーブームにのって水納島を訪れる観光客が多くなった。
昭和54年には民宿が一軒建ち、続いてコテージや民宿などが建設され、1991年では年間3万人の観光客が島に訪れるようになった。
そのため、島民のほとんどが北東側の浜に休憩所を作り、5月~9月までは観光客相手にレジャーボート、ビーチ用品などをレンタルしたり、軽食などを販売したりして収益をあげている。

先史時代と水納貝塚・島の開拓百年・沖縄戦


島のあけぼの-先史時代と水納貝塚

水納島の歴史は、明治の中ごろ瀬底島の人々が原番(ハルバン)として移り住んだのがその始まりで、それ以前は無人島であったと言い伝えられていたが、1976年の調査で古代人の遺跡があることが確認された。これが「水納島貝塚」であり、これにより水納島にも約1,000~1500年前に古代人が住んでいたことがわかっている。

島の開拓百年の歴史

島の開拓の始まりは約100年ほど前で、明治23年の四月、瀬底の製糖組6組の組合員が開拓を始め、その土地を組合員に分配して工作をするようになったと記録されている。
明治32~34年までの水納島の戸数は13戸、1戸平均一人となっている。
このことから地割りされた畑地の管理のため働き手の男が一人で島にわたり、仮住まいの居を構えて生活していたと考えれれている。
明治36年の土地整理で土地の私有が認められるようになり、土地の開墾がすすんでいった。
開墾後の島の耕地は肥沃で小麦、豆類、大根、西瓜、落花生などの作物がよくでき、特に大根(ミンアレークニ)は有名であった。従って生活の安定を求めて、水納島の土地を確保をし、耕地を広げようとするものが増えていき、1942年には22戸、120人余りの住民が生活をするようになった。

沖縄戦と水納島

太平洋戦争が激しさをますなか、伊江島飛行場の建設や本部半島に布陣する宇土部隊の陣地構築などに、多くの住民が徴用または防衛隊に召集された。
そして米軍の上陸が必至となった1945年2月に避難命令が出され、島の人々の多くが瀬底や本島へ避難した。
3月23日米軍の沖縄上陸空襲がはじまり沖縄戦になると、島に残った住民はアダンの下の防空壕に隠れて生活をした。
4月12日午前7時頃米軍第7歩兵師団陸戦隊約300人が水納島に上陸、13日はさらに約3000人の米軍が上陸し、島に残っていた住民は、捕虜となり保護された。
米軍は、伊江島攻略の基地として北側砂丘地に飛行場を作り、高射砲や機関銃などを据えた。 終戦を迎え、水納島に住民が帰ってきたのは8月も終わりころであった。

◎戦後の歩み

昭和20年8月末頃に帰島した住民は、戦争で荒廃した農地を耕し、協力した復興に立ち上がった。翌年には島の人口も増え、活気を呈したが、小さな島で耕地も少なく若者のなかには、軍作業やその他の職を求めて出稼ぎに出るものもいた。 昭和30年代になると那覇やコザなどに転居し商業に従事したり商店を経営する人も増えた。 中学、高校を卒業したものは、ほとんどが島外で働くようになり過疎化がはじまった。 130人いた島民も昭和45年には20戸、64人に激減した。 そのような離島へき地に光明かりが訪れたのは、1972年の日本復帰以後である。 特に島の暮らしを大きく変えたのは

  • 唯一の交通機関である「みんな丸」が定期船として就航したこと
  • 電気や水道、電話が本島なみにしようできるようになったこと
  • 県公害衛生研究所ハブ支所によるハブの駆除事業によってハブによる被害、危険が少なくなったこと

などである。
このような整備によって人間らしい文化的な生活が送れるようになってきた。

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