先史時代と水納貝塚・島の開拓百年・沖縄戦

先史時代と水納貝塚・島の開拓百年・沖縄戦

島のあけぼの-先史時代と水納貝塚

水納島の歴史は、明治の中ごろ瀬底島の人々が原番(ハルバン)として移り住んだのがその始まりで、それ以前は無人島であったと言い伝えられていたが、1976年の調査で古代人の遺跡があることが確認された。これが「水納島貝塚」であり、これにより水納島にも約1,000~1500年前に古代人が住んでいたことがわかっている。

島の開拓百年の歴史

島の開拓の始まりは約100年ほど前で、明治23年の四月、瀬底の製糖組6組の組合員が開拓を始め、その土地を組合員に分配して工作をするようになったと記録されている。
明治32~34年までの水納島の戸数は13戸、1戸平均一人となっている。
このことから地割りされた畑地の管理のため働き手の男が一人で島にわたり、仮住まいの居を構えて生活していたと考えれれている。
明治36年の土地整理で土地の私有が認められるようになり、土地の開墾がすすんでいった。
開墾後の島の耕地は肥沃で小麦、豆類、大根、西瓜、落花生などの作物がよくでき、特に大根(ミンアレークニ)は有名であった。従って生活の安定を求めて、水納島の土地を確保をし、耕地を広げようとするものが増えていき、1942年には22戸、120人余りの住民が生活をするようになった。

◎沖縄戦と水納島

太平洋戦争が激しさをますなか、伊江島飛行場の建設や本部半島に布陣する宇土部隊の陣地構築などに、多くの住民が徴用または防衛隊に召集された。
そして米軍の上陸が必至となった1945年2月に避難命令が出され、島の人々の多くが瀬底や本島へ避難した。
3月23日米軍の沖縄上陸空襲がはじまり沖縄戦になると、島に残った住民はアダンの下の防空壕に隠れて生活をした。
4月12日午前7時頃米軍第7歩兵師団陸戦隊約300人が水納島に上陸、13日はさらに約3000人の米軍が上陸し、島に残っていた住民は、捕虜となり保護された。
米軍は、伊江島攻略の基地として北側砂丘地に飛行場を作り、高射砲や機関銃などを据えた。
終戦を迎え、水納島に住民が帰ってきたのは8月も終わりころであった。

沖縄戦と水納島

◎戦後の歩み

昭和20年8月末頃に帰島した住民は、戦争で荒廃した農地を耕し、協力した復興に立ち上がった。翌年には島の人口も増え、活気を呈したが、小さな島で耕地も少なく若者のなかには、軍作業やその他の職を求めて出稼ぎに出るものもいた。 昭和30年代になると那覇やコザなどに転居し商業に従事したり商店を経営する人も増えた。 中学、高校を卒業したものは、ほとんどが島外で働くようになり過疎化がはじまった。 130人いた島民も昭和45年には20戸、64人に激減した。 そのような離島へき地に光明かりが訪れたのは、1972年の日本復帰以後である。 特に島の暮らしを大きく変えたのは

  1. 唯一の交通機関である「みんな丸」が定期船として就航したこと
  2. 電気や水道、電話が本島なみにしようできるようになったこと
  3. 県公害衛生研究所ハブ支所によるハブの駆除事業によってハブによる被害、危険が少なくなったこと

などである。
このような整備によって人間らしい文化的な生活が送れるようになってきた。

戦後の歩み戦後の歩み

スタッフ募集|水納島

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